『 あ、もしもし...イラストレーターのヤマダという者ですが... 』
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そもそも美術(デザイン)学校の課題ってそんなに魅力的なモノではなかったし、
どちらかといえば高校の時に火が付いたバンド熱そのままに、学園祭のバンド・パーティに
お熱でした。課題なんて、ある時は提出の日の朝方起きてやっつけで仕上げて... 実にテキトー。
ヘタしたら友達と遊んでバンドやって...というメモリーだけで終わりそうな時期、上級生の
卒展を見たんですね。展示モノにはそんなにひかれるのは無かったけど、別室でやってた映像
ゼミの作品展... 一気に暗闇の中に入りカチャカチャと映写機が回り、ホコリっぽい空気を照らして
スクリーンに映し出された別世界... みずみずしく、そしてぎこちなく無邪気に動き出すハンド
メイド・アナログ・フィルムの世界...。単純に「あー面白ーい...!」とココロ動かされたワケです。
そして来学年、早速映像ゼミを選択... 機材の操作は情熱に引っぱられたまま行き当たりばったりに
覚えていって... 何より、上から与えられたモノをシコシコやるのでなく、完全に自分の世界を
1から作り上げられるこの環境に興奮してました。とにかく発想、アイデア、センスなど...当時
ハタチそこそこの自分が持っていたレベルの感性を丸ごと投影出来る事が楽しくてしょーが
なかった。加えて同時期、曲作りもしていたのでその映像のイメージに合った音楽も自分で作れる...
そう、まさに(良く言われる所の)総合ゲージュツだったのですね。... ある意味この時期に初めて、
本来の<クリエイト・エゴ(=自分を表現する恍惚)>の喜びの甘い汁を味わってしまったワケです...
そーなると(若痰さ故に)彼はしばらくは突っ走ります(笑)。
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最初どんなラク描き絵でも、一旦それが動くとそれだけでプリミティヴな面白さがあるワケです。
最後の一年間はとにかく時間が許す限り作品を作ってました。今の学校だと時代的にほとんどが
ビデオ作品のようですが、当時はまだビデオはちょっと軽く思われていたこともあってメインは
フィルム(16ミリ)でした。当時の僕のテーマのベクトルは(今思うと)2種類あって...処女作の
ビデオ作品は"銭湯の壁画がだんだんと描き上げられていくサマをドキュメント・タッチで撮って
みたい..." というアイデアで、よく行ってた銭湯のオバサンに頼み込んで半年に一回壁画を描き変える
日を教えてもらい、(今とは比べ物にならない位に重い)機材を運んで背景職人(そーとう今は貴重)
の後ろで不慣れなカメラを回してました。学校から借りたそーとう高価な撮影用のカメラを回すのは
実はこれが初めてで、出来上がりは左右のパンもガクガクしてるし、いかにも学生作品です。でも、
(そのテーマ性からか)それなりに雰囲気もあり気に入りました。あとは卒業制作で家族(深く言えば
生と死の繰り返し)をテーマにした16ミリ(モノクロ)作品を作りました。あるだけの使えそうな
写真を集めて、僕の家族の現在から逆にさかのぼって子供の頃までの写真をオーバーラップさせて、
僕のムーディな曲をくっつけて仕上げました。かと言って、一番の狙いは、よくある結婚式風な
メモリーものではなく、もっと根源的な(ある意味残酷な)人の人生みたいな部分をかなり意識して
演出しました(例えばその頃他界した祖母のナキガラの写真の次にヘソの緒がまだつながったままの
姉の子供が生まれた瞬間の写真を重ねたり...)。この作品は我ながら時を超えた普遍性を持ち続ける
作品に仕上がったと思ってます。卒展の上映の時、これを観た友人たち何人かを泣かせてしまった
ようで...おそらく観てる人それぞれが自分の家族や人生と重ねて観ていられたんだと思います。
...つい長くなりましたが、以上のような、いわゆる<社会派路線>とはまた違ったベクトルで動画
(アニメーション)作品も作りました...(なかなかイラスト関連になりませんがもうじきです...笑)。
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アニメーション作品...と言うと、とかく日本ではセル画の、女のコがウルウルした"ときメモ"チック
な世界を想像するかと思いますが(実際そのテの学生もいましたが)個人的には先生が紹介してくれ
る海外のインディーズ・アニメ作家の作品を観て感化されました。当時の僕の画力は無いに等しかった
し、逆に1枚1枚丁寧に動きを付けていく路線より(当時の好きだった手法の)コラージュっぽい感じで
アニメを作ろうと思ってました。そこで自然と向かっていったのは、前から好きだったマチスの(特に
晩年の)切り絵スタイルでした。ベタ面を絵の具で塗るとどーしてもムラになったり筆の強弱で少しづつ
奥行きを出していく...そのような作業が苦手で、どちらかと言うともっとフラットで単純化した(浮世絵
のような)スタイルが自分のセンスとマッチしました。特にこの時、よりイメージ・サンプルになった
のはブライアン・イーノの75年のアルバム「another green world」のジャケット・イラストでした。
簡略化したフォルムと面の洗練された画面が美しく、これは後の僕のイラストレーターとして多少なり
とも仕事をしていく時の自分なりのアイデンティティになりました。...この手法を使って、見よう見まね
で3分程のアニメ作品(16ミリ)を仕上げました。特にストーリー性は無く、例えば...マチスの絵に出て
くるような...<色彩的な快楽空間>...みたいな世界を浮遊感を持たせて展開させました。...そんなこんなで
この映像ゼミでの1年間(もう1年欲しかった...)は自分にとっての<クリエイティヴ元年>...とでも言う
ような時期で、じきに卒業を向かえました。
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僕の中のある種の<社会性の欠如意識>...つまり、学校を始めとして「集団や組織」というものに対する
違和感、異質感というものは卒業を向かえても変わるものではなく、当り前の様に就職活動を始めていた
回りの友人たちの動きを眺めて初めて...「あー...そうか、そういうものなのか...」と気付いた位、僕の中の
辞書には「会社に就職」...という文字(発想)は最初からありませんでした(ベタな例えでスミマセン...
笑)。逆に集団組織(学校)という環境から解放されて、全て1から自分の責任に於いて生きていく
(カッコつけてます)...そういう指向でいたと思います。さて、そこでゼロから自分の生き方を問うこと
になります。...<会社という組織に依存せずに収入を得て、かつ自分の好きな部分で才能を生かせるよう
な生き方>...この、一見わがままだけどけっこう理想な生き方を自分でチョイスするのにはそんなに迷いは
無かったと思います。でも、そーは言ってもとりあえずは生活していくためにバイトを始めて、最初の
うちは、在学中に知り合った映像ゼミの先輩に気に入られ、卒業後、ビデオアーチストになっていたその
先輩からの依頼で、岐阜のデパートの15秒CMのアニメ(例のマチス風切り絵タッチ)を担当しました。
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その先輩というのは限りなく男性に近い女性の方で、近所に住んでいた高橋留美子さんと仲良くなった
とかで、それがきっかけで後に留美子先生が作品「うる星やつら」でキャラと名前を彼女から拝借した
...という経路らしいです(ちなみに先輩の呼び名は"リューノスケ"と言います)。しばらくは彼女と組んで
アニメCMに携わっていたんですが、その流れで、ふっと「このスタイルで試しに...」と、当時のイラスト
レーション誌<THE CHICE>に応募してみよう...と思い立ち、B5サイズ位の小さい絵を4 枚だけ作り
ました。内容は学生の時のマチス風アニメの世界をもう少し丁寧に仕上げた位のクオリティでした。数日
後、入選を知らせる電話がありました。審査員の好み、タイミング等、運が良かったのかも知れませんが
今の同誌のクオリティとは比べ物にならない位に当時はまだ素朴だったのかも知れません(応募者数も
おそらく今の10分の1位でしょう...)。それでもたまたま初めて応募して入選してしまうと、若さ故の
単純さから、すぐさま「わー...イラストレーターやってみよう...」という暗示にかかっていったワケです。
...時代は80年代の後半、24の頃でした。
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うすうす潜在下ではその方向しかないような気もしてたと思うんですが、その入選は現実の行動を後押し
してくれる原動力のきっかけになったと思います。...さて、そーなると、なーんにも何処にもコネもツテも
ない僕にとってまさにここからの実行力でこれからの人生が左右される...位の気分でした。まずは何処に
持ち込むにも見せるにもファイルできる位の絵を作り溜めないと話しにならないので、その1年間はずっと
絵を作り溜めていました(もちろん、そればっかりやってたワケでなく、曲作ったり、当時流行ってた
ビリヤードを友達とやりまくったりと、普通に若者ライフしてた中での事です)。...けっこうそれなりに
溜まった時点で次は営業活動です。さっきも言ったようにデザイン会社自体、ほとんど知らない状態だった
ので、まず考えた事は、本屋に行って、雑誌をめくってイラストが使われている雑誌、しかも自分の絵の
スタイルとマッチしやすい種類の雑誌社をチェックして、しかも節約のために、いちいち買わずに裏の
編集部の電話番号を繰り返し暗記して後で書き出してました。あとは、「コマーシャルフォト」誌の
各事務所の求人欄とかもチェックして、そこに載っていた事務所をかたっぱしからリストアップしました。
...そしていよいよ実行の時です。何故か電話の前で正座して(たぶんしてないと思うけど...まさにそんな
緊張の気分...笑)、受話器をとってはためらったり...それでなくてもナイーヴィーな性格だった僕に
とって、初めて会社にアポを取る...という行為は(ベタ惚れの女のコのウチに初めて電話するのに次いで
...笑)かなり勇気のいる事でした。でも、自分に言い聞かせました...「ここでダイアル(多分プッシュ
フォンだと思いますが...気分で)を回すか回さないかで、自分の人生が決まる」... 思い切りました...
「あっ、もしもし、始めまして...ヤマダという者ですが是非絵を見て頂きたいと思いまして...」
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世間を知らないというのは大胆かつ怖いもので、いきなり最初に持ち込みに行ったのが<K2>でした(笑)。
確か当時の場所は六本木で、(ビッグ2はいませんでしたが)昔雑誌GOROのデザインをやってたN氏に見て
もらいました。事務所に入った途端、そのプロフェッショナルな空間に完全に呑まれてガッチガチでした。
やはり多少キビシイ方で「もうちょっとデッサン力つけた方がいいね...」みたいな事を言われた記憶があり
ます。その後も雑誌社、プロダクション等、その時点でリストアップした関係は片っ端から回りました。
その後、割とすぐに反応があったのが集英社の雑誌<MORE>で、いきなり全面カヴァを含む特集ページの
仕事が入りました。最初の大きな仕事でした。それから流行通信などからももらって、スタートとしては
まずまずでした。でも意識は実に青臭く、<CHOICE>で選んで頂いたある著名なディレクターの方に見せた
時、「....そんなんじゃ絵をやってる資格はない!」...という言われ方をしてかなりヘコみ、そのまま友人を
呼び出して酒飲んだりしたこともありました(笑)。あと、MOREの仕事からつながった、ある編集の方と
納品がてら新宿高野パーラー(もう潰れたんですね)でお茶してる時、ヘンに意識しすぎてギャラの
話しは最初の内にしないといけない...みたいな妙に一方的なノウハウそのままに、空気も読まずにギャラの
話を持ち出したら「... あまり最初からそういう事言わない方がいいよ...」と言われました(ごもっとも!)
...まだ、経験不足からくる右往左往状態が続きました(かと言って今の、1から丁寧にマニュアル化し尽く
している"こーすればキミもイラストレーターになれる" 的なハウツーもどーかと思いますが...)。
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そんなある時期、<CHOICE>の準入選に選ばれたピエロの絵があったんですが、たまたま企画でピエロの
キャラを探していた新宿にあるデザインプロダクションからオファーがあり、浦和のデパート<CORSO>の
商品券のポスターの仕事が入りました。それがきっかけになり、その後、そこのプロダクションで発生する
イラスト仕事のほとんどを(半ば専属みたいなカタチで)僕に回してくれる状態になりました。主にそこは
JRの駅ビル広告をやっていたので季節毎に毎年展開していくパターンが決まってきて、収入的にも僕の年収
の7割くらいがそこのプロダクションから...という、(とりあえずは)安定したカタチになり、そーなると僕の
性格の何処かが落ち着いてしまうのでした。...イラストの仕事をするようになって2、3年が経ち、ある程度の
安定したパイプが出来た頃、僕は20代の後半にさしかかっていました。どんな作家でも自分のその時の内面
性がけっこう如実に作品に表われていくものです。例に漏れず、その頃から僕の内面(精神)性に変化が出て
きました。今まで生きてきて何となく漠然としていた<生き方の指針>...というか、自分の哲学、美意識の
ような、簡単に言っちゃうとアイデンティティをより明確な形で確立して行きたい...という願望が強くなって
行ったと思います。そしてまるで何かに取りつかれたかのように本を読み出しました。この時期の集中した
読書癖は後にも先にもこの時期だけです(元々読書はしない方なので)。何を選んだかと言うと、サルトルを
始めとして、(分かりやすい)哲学書や19世紀末の作家の伝記モノだったり、果てはボードレールだったりと
...ノーマルな小説には行かずにかなり偏ったものでした。ただ、それらの一連の書を選んでいる段階ですでに
自分の美意識は自覚しつつあったワケですが...。つまり平たく言っちゃうと... 商業イラストをちょっとかじって
来た後たどり着く、(良くありがちな)"アーチスト性"(別名=アーチスト気取り)を打ち出したい...という
欲求に駆られていたんだと思います。シャイでいながら根は自意識とナルシズムの強い自分にとっては逆に
自然な流れでした。その傾向に同調するように<個展>というカタチで自分を外にアピールしたい気持ちも
強くなっていきました。
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個展のような事は、その何年か前、イラストの仕事を始めてまもない頃に、デザイン学校の友人に誘われて
新宿のミロードで友達5人でグループ展をやったのが最初でした。その時は今思うとまだ文化祭に毛の生えた
くらいのモノでしたが、仲間とそういう行動を作り上げていることに爽やかな感動がありました。その2年後
位に(当時友人が勤めていた)渋谷ONE-OH-NINE 内のグリーティング・カードショップに設置してあるギャラ
リーに空きが出た...との事で急遽僕に話しが来てそこでやったのが初の個展でした。それも今思うとアラが目立
っていましたが、気持ちが右上がりな当時の僕は気合い入ってました。ただその精神性の思い入れ度合いに
表現された作品が追い付いていなくて、ビジュアルはシックでポップな印象なのにタイトルがやたら重々しい
...といったギャップも出てしまいました。例えば覚えているタイトルで言うと...『ストレスを生み出すマシーン
を殺せ』(笑)とか、出口最後の作品には『さあ、画廊を飛び出そう』とか... あまりの青臭いロマンティシズム
にちょっと赤面です(笑)。...ちなみにその時の手法は、従来の切り絵だとインパクトに欠ける感じだったので、
同じコラージュ性を発展させた形の、厚さ5ミリほどのスチロールボードをカットして(時にくり抜いて)構成
する半立体っぽい、レリーフ状の作品でした。余談ですが、この手法のアイデアも以前にやった仕事で得たモノ
で、けっこうその後もこのように仕事の内容によって自分の引き出しが増えていく事が多々あります。場所柄
けっこう通りがかりにいろんな人が見てくれて感じてくれて楽しいものでした。たまたま、渋谷のメイン・シン
ボルになっている円筒形の109 ビル一面に展開されているビジュアルを制作しているデザイナーの方の目にも
触れ、それがきっかけでその夏の109ビル一面のビジュアルをやったこともありました。前にミロードでグループ
展をやった時に知り合った女のコが通学途中、電車からそのビルの僕の絵が見えたらしく狂喜して電話してきた
りして...そんなこんなも含めて、個展をやる事によって見知らぬ人達と知り合い...自分の内面から生まれたイメー
ジの種が他人に広がっていく...そんな、人生の広がっていく感じがアーチスト冥利というか、活気に溢れて面白
ろかった時期です。この頃は自分の身近なテリトリーの中で楽しく浮かれていられた...そんな感じでした。
...1989年、僕は27才になっていました。
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どちらかと言うと、実際の仕事云々...の部分よりも、<アーチスティックな人生、活動>の部分にかなりウエイト
が向かった僕は、時期的に言うとその109での個展後に、前々回に述べた "哲学フェチな読書期間" が来るワケ
です。前に述べたプロダクションからの仕事で生活を保ち、でも(だからこそ?)、意識は別な方に向かっていた
のでした。そーなるとアーチスト気取りも本格的になってきました(笑)。...人は外の変化では本質は変わらない
けど、内面(精神)の変化では外見までも変えてしまう程変化&成長するものだと思いました。つまりこの時期が
僕にとっての一つのターニング・ポイント、大袈裟に言えば<意識革命>でした。そーなると気取りアーチストは
髪を伸ばし始めます(笑)。それまではせいぜい(ジェームス・ディーンのような)緩やかなウエーヴの50'sっぽい
スタイルでしたが(モチ古着)、キムタクが流行るはるか6、7年位前に肩まで伸びたロン毛で歩いていました(笑)。
でも、僕のきっかけは当時観て好きだった映画『バーフライ』でアウトローな汚れ役がカッコ良かったミッキーローク
のロン毛に感化されたものでした。...ダーク、アウトサイダー、ヒッピー...など、当時の自分の意識ワードは、それま
での<ネオアコ的少年>を恍惚なまでにガンガンと打ち砕く意識の変化で、明らかに自分の内面が変わっていくこと
に興奮していました。それまで自分のコンプレックスの源泉でもあった、ある種の "少年性" から解放された思いも
ありました。ロン毛に続いて着るものも、光沢のある、まるで美川憲一が着るような(プチ)マダムっぽいものや、
あげくに目のフチに薄っすらアイラインを引いたりして(しかも化粧品なんて無いから黒いパステルを使うあたりが
自分で爆笑...)...この方向性は果たしてどーだったのか疑問ですが(笑)、つまりは、外見を装飾する...という、僕の
『グラム・ロック第一期』もしくは『ヒッピー第一期』という事だと思います。でも、ある日、道でバイト先の仲間に
バッタリ会ってしまい、そのコが話しながら不思議そうに僕のどことなく黒い目元を見ているのが印象的でした(笑)。
...今思うと、その時が(当然勘違いも含めて)アーティスティック・ナルシズムのピークでした。実績も関係なく、
ただひたすら自分の過剰な自意識エナジーのみを原動力の頼りとしていました。その流れで今度は当時の地元にあった
現代アートを扱うギャラリー・カフェ<西瓜糖>での個展を思い付きます。そこにいくまでのプライヴェートなドラマは
僕の個人サイトにも書いてあるのでここでは省きます。本業のイラスト仕事に対して不信感も何となく感じていた時期
でもありました。<広告>というものの本質は..."ウマいこと言って騙して結局は商品を買わせるだけの..."
みたいな、
そんなウソ臭さを感じてしまい、どーも本気になれない自分がいました。...な、もので、気分は完全にアート指向で
いましたから、次の年の3月の西瓜糖での個展に合わせて前年の暮れあたりから、ほぼ完全に制作の為に部屋にこもり、
お腹が空き次第フラフラと外に出て食べて戻る...みたいな繰り返し。作風も、それまでの具象的なモチーフから、より
抽象的なフォルムを表現しました。作品は19世紀末ウィーン(クリムト/エゴン・シーレ)のビジュアル・イメージ
に感化されて縦に細長いサイズでやろうと、B2のパネルを縦に2枚つなげた、高さ150cm 程のタブローにしました。
完全に俗世間からはずれた所で息をしている...そんな(相変わらずの)自己陶酔ムードもありました。...やがて日が
近ずき、出来上がった1.5メートルの10作品を重ねて(近所なので)自転車に寝かせながら運びました。(しつこくて
すみませんが...)その時、それまでの作業を振り返って、生まれて始めて自分に感動してしまい、ちょっと込み上げて
しまいました。で、カフェに着き、作品を搬入しようとしたら...なんと、運んでいる時に絵と絵がこすれてぶつかって
そのうちの何枚かの絵に傷がついてしまっていました。さっきまでの<自分を褒めてやりたい>モードは一変して、
その梱包(プレゼン)の意識の甘さ、ツメの甘さにかなり落ち込んでしまい、オーナーと相談して、当日の朝早く来て
現場で修正する...という、実に情けない状態になりました。その帰り道は、まるで親に捨てられた小犬のような惨めさ
で一杯でした(笑)。そして、何とか復活させて(オーナーの意見で)作品数を6点に絞って1991年「ヤマダノブオ展」
は開かれました(知っている人は知っているFRICTIONの元ギタリストで画家でもある、ツネマツマサトシ氏も来て
くれたようで、それは嬉しかった)。
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色々ありましたが、その西瓜糖での個展は、僕の意識の何処かには「20代の最後に何かガツンと...」という気持ちが
あったと思います。この個展も含めて、いくつかの展覧会を経験してみて冷静に感じたのは「単なる自己満足で終わって
いたんだとしたら、それはどーなんだろ?」...という事でした。身内や知人関係にDMを送って来てもらうのももちろん
嬉しいんですが、一番の目的は未知の人達の目に触れて、認知されて批評されて...というプロセス、それが無いと、ただ
の個展ゴッコで終わってしまう...。加えて、自己流の熱意のままに飛び込んだアート...それが何らかの形で外にさらされ
た時、やはりあまりの自己満足のエリアで止まっていたのかを感じました。そして前記した...20代も終わって行き、
30代を向かえた時、それまでの意気まいていたものの反動からか、何だかポッカリと力が抜けてしまっていましたが
それは良く言えば、やっと地に足がついてきた...とも言えます。...本業の方はと言えば...引き続き、半ば専属でもらって
いたプロダクションからのレギュラー仕事を中心に。まだ家賃のチープなアパートに住んでいた僕は(実に)単純に、
「...このままやっていけば右上がりになっていくでしょう...」みたいな、漠然とした楽観的な読みのままに家賃が倍以上の
所へ引っ越します。そして案の定、その甘い読みは大きく的を外していきます(笑)。...それまであまりにその状況に安心
しきっていた、前記のデザイン・プロダクションの雲行きが怪しくなっていったのです。時は90年代になってまもなくの
頃でしょうか... 急に支払いがルーズになり、再三催促しても色々理由を言いつつ平気で何か月も遅れたり...やはり、その
会社は潰れかかっていました。時期的に、いわゆるバブルが弾けた...と言っていいでしょう。さて、(おそらく後に潰れた
であろう)その会社からもらっていたレギュラー仕事は当然無くなっていくワケです。前にも述べたように、その会社から
の収入が年収の7割位を占めていた僕にとって、まさに途方に暮れた状態...『いつまでも、あると思うな金と会社』って
感じです(笑)。こーなるとは知らずに家賃が倍以上の所に引っ越してしまったワケだからかなり"ビンボー・暇アリ"な
状態に戻ってしまって、当然バイトをして補ったりのやりくり生活でした。多分、ハタから見ると「良くそれでやって
いけてるねぇ...」と言われる状態でも(実は今でも言われるけど...)呆れる程の楽天家な気質が物事の深刻さを麻痺させて
いました。それでも思い出したように集中して営業したりと、(あくまで自分のペースですが)動いてはいたけど、(不況
の影響からなのか自分に問題があるのか)思うように仕事は回転して行きませんでした。その原因の一つに、正直言うと、
やはり何処かイラスト業...というものを惰性で向き合っていた...という事も影響してるかも知れません。生活はギリの状態
をキープしつつも、またまた僕の意識のベクトルは、その頃知り合ったバンド連中との音楽活動に向かっていました。
この時、30才を迎えていた僕は、数年前に火が付いた時以来のバンド熱が沸き上がり、毎週渋谷のスタジオに行っては
リハーサルをしていました。しかし、半年弱程活動したあたりで、突然メンバーの脱退宣言があり、呆気なく解散して
しまいます。...けっこう、内心本気でいただけにそのショックはしばらく尾を引いて、何となく人にも会わずに引きこもり
がちになっていました。そんなある時、デザイン学校時代のクラスメートからもらった仕事が、フルーツ・メーカーの
DOLE(字、あってるかな?)のデパートの売り場に掛けるクロスやポップのデザインで、それは年間使用料も加味されて
別件の仕事も合わせて120万位のギャランティでした。(おそらく)後にも先にもそういう額をまとめてもらう事は滅多に
無いかも知れません。振り込まれた字ズラを見て「Wow!」って言ったか言わなかったか...当時、車に興味を持ち始めて
いた僕は、すぐさま「これで教習所に通って、車が(中古)買える...」と思ってしまう性格でした。しばらくして免許も
取り、中古のマイカーを手に入れました。それまで自分の人生に車生活というのは絶対ありえない...と思っていただけに
この逆転劇は再び僕を活気づけました。何といっても走っている時に感じる自由な気分は僕の気質とマッチしました。
その<移動する自由のオモチャ>を手に入れた当初は興奮のままにそこら中を走り回ってました。車によって行動スタイル
は明らかに変化していきました。
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これまでの自分を振り返ってみて、その、あまりにも職業意識を無視したような生き方に、受け取る人によって「そんなんじゃ
ダメだ!」って言う人もいれば「いいね自由に好き勝手やってて...」と、色々ですが、もう成るようにしか成らない... という
...(思考は重いけど)精神は軽いスタイルは僕自身好きなので淡々と開き直って今まで続いています。そんな90年代の半ば頃
、(皆さんもご存じの)モード・イラストレーターがチラホラとメディアに表われて来ました。その頃のカルチャー誌『ジャッ
プ』で特集されたモードイラストの新しい動き...とりわけその中で、田辺ヒロシ氏のシックな世界は新鮮でワクワクさせるもの
がありました。(これ言うとちょっとおこがましいですが)氏の絵を見て「やっと僕と同じ様なセンスを持った人達が出て
きた...」みたいな気分で、素直に感化されました。他にはVIVA YOUの若野氏も同様な感触を持ちました。時代感覚で言うと、
個人的には80年代より90年代の方が僕の感性にマッチしていました。...なので、どーも正直に言うと、いわゆる同業の人達の
絵を見てすっごい好きになれる人って滅多にいなくて、変に媚びてたり、何処か稚拙さ、可愛いらしさを売りにしているような
のが主流だったりしてたので「...何か違うな...」と思っていただけに前記のモード・イラストの流れは、(実は先が見えなく
なっていた)僕に新たな活力の光りを与えてくれました。そーして新しい方向性の光りによって蘇ることの出来た僕の感性は
それまで割と惰性でやってきたスタイルを、より、画面のインパクト、構成、そして何より絵に漂う<匂い>のようなものが
混在している、それで音楽やモードの香りのする...いわゆる"90年代型の僕のスタイル"...というものを試作を繰り返しつつ
模索して徐々に作り上げていきました。それがHP上で公開されている一連の作品です。モード・イラスト...といっても、とに
かく誰かの猿マネをするのも、そうしている人も嫌いなので、極力他の人がやっていない手法で自分のタッチ...というものを
意識してました。総合して僕の絵作り上のベースにあるものは、<パターンの反復による装飾>だと思っています。例えば...
古い街角の石畳のモザイク、同系色のトーンの濃淡で構成されている風景など...過剰に足していく方向が僕にはうっとうしく、
それとは逆の...なるべく無駄を引いていく『マイナスの空気感』が僕の気質になっていました。それらをふまえて徐々に作品が
淘汰されて、<マイ・ニューモード>が増えて行き、カルチャー&モード誌、音楽関係などを営業に回り、実際の仕事につな
がる率はまだ頻繁ではありませんでしたが、よりディープなニュアンスに進化した僕の新しいスタイルに、一部ではかなり
ハマってくれる人もいたりして...とにかくある意味、この時期に、初めて自分の<イラストレーション>というものに真剣に
深く向き合った...そういう意味ではイラストレーターとしての(再)出発点なのかもしれません(自覚するのが遅い...!)。